生誕100年 ジャクソン・ポロック展 開催概要

ジャクソンポロック

ジャクソン・ポロック

1912年、米国ワイオミング州コディ生まれ。一家で西部を転々としたのち、18歳の時、芸術家を志してニューヨークに出てくる。
第二次世界大戦後、床に広げたキャンバス一面に塗料を即興的に流し込み、撒き散らす独自の作風を確立し、一世を風靡。ピカソ後の絵画芸術の新しい地平を切り開くとともに、モダンアートの中心をパリからニューヨークへと移動させる立役者となった。1956年、自動車事故によって逝去(享年44歳)。

Photograph by Hans Namuth © Hans Namuth Ltd.

●第1章「1930-1941年:初期 ―自己を探し求めて―」

1930年、ポロックはロサンゼルスからニューヨークに出てきて絵画修行を始めます。
アメリカの地方の情景を描く地方主義の代表的画家トーマス・ハート・ベントン、陰鬱で神秘的なムード漂う風景画で知られるアルバート・ピンカム・ライダー、あるいはネイティヴ・アメリカンの芸術やメキシコ壁画、そしてピカソのキュビスムの影響を次々と受ける中で、自分の進むべき道を模索していきました。第1章では、ポロックのその自己探求の過程をたどります。
  • 《女》1930-33年、長島美術館

    © Pollock-Krasner Foundation /ARS, New York / SPDA, Tokyo, 2011

    しばしばポロック家の家族肖像画とみなされている作品。画面中央に大きく描かれた豊満な女性像には、一家の中心的存在だった母ステラの姿が反映されている。さらに、その表現には地母神のイメージが重ねられていると指摘する向きもある。陰鬱で謎めいた雰囲気に満ちた興味深い1点。
  • 《誕生》1941年頃、テート

    © Pollock-Krasner Foundation / ARS, New York / SPDA, Tokyo, 2011 ©Tate, London 2011

    1942年、ニューヨークのマクミレン画廊で開かれた「アメリカとフランスの絵画」展にポロックが参加した際、彼が出品作に選んだ作品。フランスからの出品作家はマティス、ピカソ、ブラックなど、そうそうたる顔ぶれであった。ポロックは同展でそれら現代の巨匠たちと初めて肩を並べて展示を行うことで大きな刺激を受け、まもなく彼の仕事は次のステージへと移ってゆく。

●第2章「1942-1946年:形成期 ―モダンアートへの参入―」

1942年、ポロックの仕事は大きな展開を見せます。ピカソ以外に、ミロやシュルレアリスム、マティスなど、ヨーロッパのモダンアートを積極的に吸収し始めるのです。1943年には初個展も開き、その時、アメリカの有力な美術批評家クレメント・グリーンバーグにも見出されました。そうしてポロックはモダンアートの世界に本格的に足を踏み入れていきます。
第2章では、ポロックがモダンアートの画家として台頭していく歩みを考察します。
  • 《ポーリングのある構成II》1943年、ハーシュホーン美術館

    Hirshhorn Museum and Sculpture Garden, Smithsonian Institution, Gift of Joseph H. Hirshhorn, 1966. Photography by Lee Stalsworth © Pollock-Krasner Foundation / ARS, New York / SPDA, Tokyo, 2011

    ポロックは、彼のトレードマークとも言える「ポーリング」という技法を1942年から始めた。それは、流動性の塗料を画面に流し込んで描くというものである。当初の試みは非常に控えめであったが、翌1943年にはいくつかの作品でその技法を大胆に実践するようになる。本作は、ポロックのポーリングが大きく発展した1943年の主要な作例である。味深い1点。
  • 《トーテム・レッスン2》
    1945年、オーストラリア国立美術館

    National Gallery of Australia, Canberra © Pollock-Krasner Foundation /
    ARS, New York / SPDA, Tokyo, 2011

    ネイティヴ・アメリカンのトーテムを主題とした作品。ネイティヴ・アメリカンの芸術や文化はポロックの仕事に深い影響を与えていたが、本作はポロックの形成期におけるその主要な作例の1つ。

●第3章「1947-1950年:成熟期 ―革新の時―」

戦後まもない1947年、ポロックは画面を同じようなパターンで埋め尽くす「オールオーヴァー」な構成と、床に広げたキャンバスの上に流動性の塗料を流し込む「ポーリング」の技法を融合させて、自己の代表的な様式を確立しました。 そこでは、ピカソのキュビスムを基盤としたそれまでの絵画の構造を超克した、新しい次元の絵画が実現されていました。
第3章では、絵画芸術を革新し、現代絵画の出発点となったポロックの成熟期の仕事を展観します。
  • 《ナンバー11, 1949》1949年、インディアナ大学美術館

    © 2011, Indiana University Art Museum

    ポーリングの技法をオールオーヴァーに展開したポロックの典型的なスタイルの抽象絵画。1951年、第3回読売アンデパンダン展の折に日本で初めて展示されたポロック作品2点のうちの1点で、同年の『みづゑ』誌4月号の表紙にもカラーで大きく取り上げられて関心を集めた。
  • 《ナンバー7, 1950》1950年、ニューヨーク近代美術館

    Gift of Mrs. Sylvia Slifka in honor of William Rubin. ©2011. Digital image, The Museum of Modern Art, New York / Scala, Florence

    1951年に日本に初めてやってきたポロック作品2点のうちのもう1点で、1950年というポロックの絶頂年の作。同じくポロックの典型的なスタイルの抽象絵画であるが、こちらは横長の帯状のフォーマットが特徴的で、画家の制作のアクション的な要素もよく表れた秀作である。
  • 《ナンバー9》
    1950年、セゾン現代美術館

    日本国内にあるポロックの成熟期の、それも1950年という絶頂年の作品として非常に貴重な存在。いったん画面をポーリングでオールオーヴァーに覆ったあと、絵筆で所々上塗りを行っており、ポロックがさらなる新しい展開を模索しているのを伺わせる興味深い作例。
  • 《カット・アウト》
    1948-58年、大原美術館

    成熟期、ポロックはそれと認識できる対象物のない抽象表現の極限を実現したが、その陰で、今までにない新しい種類の具象的な表現もひそかに探求していた。そこで彼が採った方法は、画面の一部をナイフで半具象的な形に切り抜くというものであった。画面の中央が人のような形に切り抜かれた本作は、ポロックのその注目すべき試みの代表作として名高い。

●第4章「1951-1956年:後期・晩期 ―苦悩の中で―」

ポロックの仕事は1950年に絶頂に至ると、翌1951年には突然方向を転換します。
成熟期の網の目のような抽象的構成は捨てられ、初期や形成期に描いていたような具象的なイメージが、画面に再び現れてきました。その後、1954年頃からは作品数が顕著に落ち込み出します。
しかし、そうした苦悩の中でもポロックは、自らの未来をあきらめずに探っていました。
第4章では、前衛画家としての衰退の危機と闘ったポロックの最後の軌跡を振り返ります。
  • 《ナンバー11, 1951》
    1951年、ダロス・コレクション

    Daros Collection, Switzerland

    本展出品作の中で最大のサイズ(146 x 352 cm)を誇り、見る者を圧倒するスケール感を備えた大作。1951-52年にポロックが取り組んだ「ブラック・ポーリング」と呼ばれるシリーズに属する。ブラック・ポーリングは、基本的には黒一色で描かれたのに対し、本作では初層で赤茶色が顕著に用いられている点が例外的で注目される。

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